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賢人の雑学:「ミナミ」「なんば」―飛鳥から「難波」が見える

[賢人の雑学]

池田末則の地理魍魎

「ミナミ」「なんば」―飛鳥から「難波」が見える
池田末則の地理魍魎
 

大阪市内の「キタ」に対し「ミナミ」は千日前・道頓堀・心斎橋などは、いわゆる上方の繁華街(盛り場)となっています。しかし、明治以前は「大坂七墓地」の一つとして焼場・刑場などがあって、三津寺・竹林寺・自安寺・法善寺や千日ごとに念仏法要をつとめた千日寺などがあったのです。

安井道頓の新運河(道頓堀)の開削に汗を流した河内国の久宝寺農民たちの、宗右衛門・九良衛門・久左衛門・吉左衛門らの名は今も町名となって残っています。

また、大塚心斎が架橋した「心斎橋」、今宮参詣路の「戎橋」付近は、惣百姓の一閑村から三津寺の寺内町として急に発展したのです。同町の夏祭りは『摂津名所図会』によると「島ノ内(四ツ橋付近)の妓婦花を飾り、風流に粧いて、互いに艷をくらべてねり歩く、見る人もうかれて酒をすゝめ、ねりもの姿にて一夜妻と語るも、難波津の繁花なるべし」とあり、島ノ内に過ぎたるものが三つあり、安井・大丸・住友とうたわれたのです。

「ミナミ」「なんば」―飛鳥から「難波」が見えるさて、「道頓堀」の南、「難波村」の歴史は『古事記』の「浪速」の地名説話からはじまる―。孝徳・天武・聖武天皇の「難波津」は日本の陪都として重視され、推古天皇は難波から飛鳥京まで大道を開いたのです。今でも飛鳥の一角から大阪新世界の通天閣をかすめ、難波浦の景色が見えるのです。

文化九年(一八一二)、江戸の画家・司馬江漢らの『吉野紀行』には「山中(飛鳥)なれども茶屋ありて休む、若き美女紅粉を粧し、客を留めて酒を売る」とみえ、「難波の津」、「播磨の灘」を写生しています。早くいえば「飛鳥」から「難波」を直視できることは、古代の外交・交通・経済の上に、きわめて重要な関係にあったことが理解されるのです。

筆者プロフィール

池田末則さん

[日本地名学研究所長] 池田末則さん

元奈良大学講師(地名伝承学)、前奈良市文化財保護審議会委員・文学博士。著書に『日本地名学伝承論』(平凡社)、『地名伝承の研究』(KK名著出版)、『大和地名大辞典』(名著普及会)、近刊に『地名伝承学論』(クレス出版)など。古代の文化遺産としての地名の研究・保存につとめる。

 

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