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賢人の雑学:考える葦をやめた人間たち

[賢人の雑学]

佐藤弘樹の英語回帰

考える葦をやめた人間たち
佐藤弘樹の英語回帰
 

記憶力が年齢とともに低下して「ホラ、あれだよ、アレ」などと口走りながら思い出せないもどかしさに身悶えする時、あえて「記憶力」は落ちたけれども若い頃より「思考力」は深まっているはずだと思いたい。 『失うものあれば得るものあり』も人生の教訓か。

子供の頃に学校で様々な事柄を暗記させられ、そうした暗記に何の意味があるのかと悩むのは大昔からの「思春期の戸惑い」だが、コンピューターの登場以来、人類はこうした悩みから解放されたかのように見える。チョちょいとキーボードを叩けばたちどころに知識の断片はこれでもかと提示される。これほどの便利さは夢のようで、今や「いい国作ろう」も「水兵リーベ」も無用の長物と化した感がある。

しかし物事には光と影がある。人は暗記をしなくなってどうなったのか。知識の断片を頭に詰め込む事は本当に無駄だったのだろうか。自分はできなかったので大きな顔はできないが、人は知識の断片を得て初めて“考える”=思考するようになったのではなかろうか。1192年鎌倉幕府成立という歴史的事実を暗記するために「いい国作ろう」という合言葉だけを覚えていても、大人ならテレビのクイズ番組に答えるためぐらいしか役に立たない。

その知識から考えられることは、それ以前は用心棒程度にしか見られていなかった武士が時の政権を掌握したことにあり、それが12世紀後半に起きてそれ以降の日本の歴史に多大な影響を及ぼした点にある。武士は近代に軍人へと形を変えた。

人は知識を基に思考しそれを思想とする。このプロセスがコンピューターの登場以来人間の頭からすっぽり抜け落ちてしまったのかもしれない。 「覚える必要ないじゃん、だってパソコンや携帯ですぐわかるもん」の時代。

社会的エリート(嫌な言葉だが)といわれる人たちの破廉恥な犯罪や、難関校(嫌な言葉だが)といわれる大学の学生が薬物犯罪に手を染める姿は、知識だけでは何の役にも立たないことの証明になっている。「知っている事」と「考える事」と「感じる事」はおのずと違うはずだと思う。

知識=what I know=knowledgeと思想=what I think=thoughtと感想=how I feel=impressionのバランスが崩れていることが現代社会の癌かもしれない。

最近のホームページでは「人に好かれるための3か条」「彼女にスゴイと言わせる条件」「角が立たない反論の方法10か条」などなどをよく見かけるようになった。他人の考えた解決法で問題が解決するのなら世界は平和で万々歳だが、自分では考えられない・考えたくない人たちがいまや町に溢れる時代になったのか。

そんなに考えることが苦手ならワシが代りにやってやろうというコンピューターの呟きが聞こえるような気がする。ひょっとするとパソコンを立ち上げた時の「ぱぴゃぁ〜ん」という音を翻訳すれば「アホヤノォー、オマエ」かもしれない。

 

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