賢人の雑学:僕を待つ懐中時計
[賢人の雑学]
松山 猛の物見沢山 (2010.02.10)


衣食足りて礼節を知る。昔の人は人としての生き方を、そんな言葉で定義して、よりよき生き方を示しておいてくれた。この度、このコラムを書くにあたり、少々真面目な気分で、その言葉を思い出したのだった。
衣食の衣と言えば「猛さんは1000歳まで生きても充分なくらい、着る物や履く物をもう持っているわね」とよく女房が言う。そういえばたくさんの洋服や和服が、書斎として用意した部屋に溢れているのは事実だ。
食のほうも、少し健康のことを鑑みれば、制限したほうがよいくらい、これまで沢山の美味しいものをいただいて生きてきた。
しかし僕の中の欲張りな魂が、まだまだ満足していないぞ、と嘯うそぶく。
例えばそれを手に入れれば、たちまち良い写真が撮れそうな、魅力的な写真のレンズ。それを使い込めばよい茶が入れられそうな、極上の雰囲気を持つ中国茶用の茶壷と呼ばれる急須。そして毎年発表される魅力的な時計など、心を動かす品々は多い。
だが昨今の日本経済の元気のなさが、僕の仕事にも影を落とさずにはいてくれない。もともとお金に執着をあまり持たずに、無計画に生きてきたから、我が懐はこのところスカンピンの日照り続きだ。まあ今までが良過ぎたのだろうねと、家内と笑いながら暮らしていられるだけ幸せかとも思う。
そんな僕だが、一昨年のバーゼル時計見本市の時、日曜日に開かれる専門家向けの時計トレード市で見つけた、一つの懐中時計が気にかかっている。おそらくは20世紀の初めごろに造られただろう、リピーター・クロノグラフと呼ばれる複雑機能を持つものだ。だがその業者はこのカード全盛時代なのに現金でしか売るわけにはいかぬと言う。
旅先にそんなに高額の現金を持ち歩かなくなっているから、その年は購入をあきらめた。僕がその時計を吟味していた時、キプロス島の時計商だという男が、そのあと値段交渉をしているのを見かけた。
だからとっくに売れたと思ったその時計が、昨年の市にも出品され、まだ誰にも買われずにいるのに驚いたのだった。ひょっとしてその時計は僕が手に入れるのを待っているのではないだろうか。そんな運命すら妄想してしまったのである。しかし昨年も現金を用意できなかったのだ。
そして今年もまた、もうすぐその時計バーゼルフェアの時期が近付く。おそらくあの時計は僕が買い取りに来るのを待っているに違いない。
なんとか今年は現金を用意しようと考えているのだが。果たしてあの時計は僕を待っていてくれるだろうか。
筆者プロフィール

[エッセイスト] 松山 猛さん
京都にてグラフィックデザイナーを経たのち、1967年『帰ってきたヨッパライ』の作詞家として一躍脚光を浴びる。
その後「ブルータス」などの編集者として、海外の食・時計・ファッションなど、生活を楽しみ、豊かにする人・モノ・文化を早くから日本に紹介し続け、現在エッセイストとして様々なメディアで活躍するかたわら、アメリカンエキスプレス・プラチナカード会員誌『デパーチャーズ』の編集長を務める。
『京の「粋場」歩き』『松山趣味』『松山猛の時計王2』『亜細亜道楽紀行』など著書多数。
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